ブックタイトル甲斐日産60th

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概要

甲斐日産60th

甲斐日産激レアお宝!超貴重な名車を拝見Vol.02プロフィール山本仁一(やまもとじんいち) さん (有)山本荒物店の3代目店主・山本仁太郎さんの長男として昭和26年に生まれる。県外の大学を卒業後、横浜で電気回路の設計の仕事に就く。昭和58年、山本の看板を継ぐ決意をし甲府に戻り4代目店主となる。山本荒物店は慶應元年から150年余り続く老舗で、戦中の空襲で焼け野原となった甲府の街の復興を担う重要な役割を果たした。キャブライトとの出会い 昭和35年に購入されたキャブライトが、今なお甲府市中心街で現役で走る姿を見られるという奇跡をご存知だろうか。まだ甲斐日産の取り扱い車種がキャブライト1台のみだった時に、山本荒物店の3代目店主・山本仁太郎さんが購入した車で、来年には車歴60年を迎えるので甲斐日産とほぼ同じ歴史を歩んできたことになる。この車が山本荒物店に納車された時、現在の4代目店主・山本仁一さんは小学校4年生だったという。 「その頃はまだ車の免許を持っている人が少ない時代で、うちの周りでも車を所有している家はほとんどありませんでしたから、納車された時は近所の人たちも珍しがって見にきていましたね。当時甲斐日産の営業担当の住吉さんがしばしば店に来られていた記憶は子どもながらにあります。私の父は大変頑固でしたので、飛び込み営業でよく父を口説けたなと感心します。後で聞いた話ですが、住吉さんは月間5台売り上げたら会社からご褒美にカメラをもらえることになっていて、うちの成約で5台目達成がかなうという状況だったそうです。でも住吉さんはそれを父に言えなかったんでしょうね。父は住吉さんの上司からそのことを聞き、『なんで早くそれを言わなかったんだ』と叱ってすぐに契約し、住吉さんはカメラをもらうことができたそうです。」荒物商の心強い助っ人 “荒物”という言葉は最近あまり使われなくなったが、生活の道具を自然の植物から加工して作った雑貨類の総称で、竹やワラ、シダ、麻、ヨシなどから作るザル、かご、ほうき、スダレ、さお、縄、わらじ、ムシロ、タワシなどを指す。つまり山本荒物店では現代のホームセンターで売られているような日用品雑貨を取り扱っているのだ。キャブライトは商品の配達などで大活躍だったそうだ。 「キャブライトが来る前まではリヤカーをバイクに括り付けて配達していました。荒物商はスダレやヨシズ、当時燃料として使われていた練炭や、陶器でできた蒸しかまどなど、とにかくガサの大きいものや重たいものが多いんです。それらを積んだリヤカーを朝は店の奥から担ぎ出し、夕方また奥へ運ぶというのをいつも手伝ってきましたから、キャブライトが来てずいぶん楽になり助かりました。」これからも大切に乗りたいお宝 現在も年に一度の車検を取得し、クラシックカーのイベント会場まで繰り出すなど、たまに走らせているそうだ。ガソリンメーターが無く、助手席のワイパーは手動、余計な機能を付帯しない何ともエコな仕様が良い。車体にペンキで手描きされた広告もレトロ感たっぷりだ。その珍しさから30年ほど前から山本家のキャブライトはしばしばメディアの注目を浴びるようになり、1990年にはTBSのバラエティー番組「ギミア・ぶれいく」や、UTYのニュース番組にも出演している。今やキャブライトは山本家のお宝的存在だ。 「動くから使えるものは直して使っていく、という父の考えを守っていたらいつのまにか59年経っていたという感じです。これまで3度大きな修理を経験しました。部品が無いので代替できる部品をあちこち探しまわって大変ですが、父の形見みたいな存在なので、これからもずっと大切に乗っていこうと思います。」山本仁一さんCABLIGHT キャブライト(初代)A20型は1958年から61年まで生産され、ダットサンブランドで販売されていた小型トラック・バン。シートはパイプ椅子のような構造で助手席側のワイパーが手動。燃料計が無く、助手席の後ろから棒を挿し込んで残量を確認する方式だった。当時の甲斐日産営業担当・住吉譲さん(右)と山本仁一さんKAI NISSAN 60th Anniversary | 23