ブックタイトル甲斐日産60th
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甲斐日産60th
社外取締役井上雅雄さん、甲斐日産OB住吉譲さんが当時を懐かしく語る田中好輔会長が聞くス ペシャルインタビューいうのを許さない人でした。また自分たちの親に当たる会社ということで、冷たくあしらうことはできなかったのでしょう。銭勘定とは別に心情として引き受けたと思います。住吉 合併当初はそれまでは競合相手だったわけですから、それぞれの会社の社員が固まっている雰囲気もありました。田中 軋轢があったのは仕方ないことです。でもそういう雰囲気をなくそうと、特に上の人たちは意識して務めたと聞きました。井上 山梨日産の営業権を買い取り、そのお金で山梨日産内部を整理し、社員は希望者を引き受けるという形をとりました。結局県内の日産を束ねていく立場に田中潤次さんは立たされた格好でした。でも、自動車業界は他業界より遅れてバブルの恩恵に預かる傾向にあり、統合後にちょうど業績の良い時代が巡ってきたことも助けて、ゆくゆくは債務を全て返済することができたのです。ですから田中さんの決断は本当に英断だったなと思います。田中潤次元会長の思い出井上 田中潤次さんの思い出を語れば話が尽きないですが、とにかくユニークな人柄でした。まず服装が特徴的で、それを終始一貫変えることはありませんでした。背広はセンターベントで3つボタン、ズボンは今流行っているような細身のタイプ、靴は特注のドクターシューズのブーツ、そしてコートの丈は短めと決まっていました。夏には頭の毛をいつもクリクリに剃り上げていました。雪の日には馬で出社したのも印象深い。自宅の庭の大木にカラスが巣を作ったからと、田中さん自ら木に登って巣の中の雛を捕ってきて、会長室で鳥籠に入れて飼っていたこともありました。人によってはカラスは縁起が悪いと気味悪がっていましたが、田中さんはそんなことは全くお構いなしで、肉を箸でやったりして、大変かわいがっていました。田中 そうでしたね、カラスを飼う人は珍しいので、多くの方が今でも覚えていると思います。父はサッカーも気違いといっていいくらい好きでした。当時の甲斐日産サッカー部は山梨県の実業団リーグで一番強くていつも優勝していました。当時メーカーの日産チーム(横浜F・マリノスの前身)との試合にもいつも勝っていたほどで、強かったんです。休日にサッカー好きの小学生を集めてチームのメンバーとサッカーをして触れ合うイベントなども開催していました。父は県サッカー協会の会長も務めていました。そんな影響があって、私も子供の頃からサッカーをやっていましたね。井上 それから何事も徹底的にとことんやるタイプでした。例えばゴルフでいえば、ゴルフクラブのシャフトがみんな剥けてしまって下地のスチールが見えてしまうくらいとことん練習する、といった具合です。一途な思いがあってそれを何としても貫くような方でした。田中 父は自分のスタイルを絶対に変えない頑固な人でした。でも経営においてそういう頑固さがないとできないことも結構あったのではないかと思います。井上 大正生まれの人たちの良い部分を持ちながら、戦後すごく苦労された方だと思います。ユニークな会社とは?田中 私が当社に来たとき、ちょうど会社が40周年を迎えました。父はよく「成りは小さくてもユニークな会社に」と言っていました。そういう父の思いを受け継いで、40周年を機に会社のビジョンを今一度はっきりさせておこうと思いました。そして決まったビジョンを社員のみんなとしっかり共有していきたいと思い、「当社のビジョン」という名刺サイズのカードを作ってビジョンを明記し、社員たちに配りました。(「当社のビジョン」のカードは写真参照) 先のユニークとはどんなことかを私は経営者として考えることが多いですが、設立初期は例えばボーナスを年に4回出す、という夢のようなことだったと聞いています。井上 それをやっている会社はあまり無いでしょうからとてもニッサングリーンカップサッカー教室での田中潤次元会長(右から3番目)16 | KAI NISSAN 60th Anniversary