ブックタイトル甲斐日産60th

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概要

甲斐日産60th

んな桑畑の中につくって大丈夫かと。移転先はどのように決定されたのでしょうか。井上 平和通りは当時まだ今のように抜けていませんでしたが、いずれ南側に発展していくという読みがあり、将来的には抜けると分かっていました。国道20号線沿いの現東京インテリアのある場所は片側車線からしか入れないこともあり、そこはとっておくことになりました。田中 時代の大きな趨勢を踏まえた判断だったと感心します。甲府南ICやリニアの計画が成される前の事で、それは先見の明だったなと思います。井上 現本社の場所は荒川側に向かって広がる余地もあったので、現在の広い敷地を確保することが可能になったのも良かった点です。田中 季節になるとカエルがショールームの窓に張り付いたりしたそうですね。住吉 大雨が降るとこの辺り一帯が水浸しになったりもしました。でも新社屋を作ったことが本当に嬉しかったです。何より、先輩のみなさんが努力されてきたから、ここまでこられたと思います。田中 バイパス沿いの土地は貸していたので賃料収入がありましたが、我が社は不動産業が本業なわけでもないということで、後に東京インテリアに売りました。その売却資金で甲府石和店とミルカイト店の2店を新たに作ることができたので良かったと思います。山梨日産統合の決断田中 ローレルやセドリックが花のモーター系と呼ばれ、利益が出ていたのはバブルも終わった平成2年前後くらいです。しかし、山梨日産を統合した昭和63年はそれより前の時期で、まだ当社が債務超過に陥っていた頃です。よく決断したなと思います。井上 昭和53年にチェリー山梨を救済合併した時は、事実上こちらが尻拭いをする形だったので、また大変な思いをすることは無いだろうという意見も社内にはありました。しかも甲斐日産は元々は山梨日産から分派してできたので、いわば山梨日産が親で甲斐日産は子どものようなもの。それなのに子どもが親を助けて半ば吸収に近いような状況で統合するのですから、社内には相当の軋轢もありました。田中 山梨日産とは親元との合併ということで、メーカーが中に入り、甲斐日産が買い取る形で引き受けました。当時、社内的には反対意見が多く、その中で父だけが推進したため、孤立し苦しんだそうですね。住吉 田中元会長は推進しようとしていましたが、中込さん、飯野さん、北浦さん、みんなが反対していました。またメーカーが中に入って話を進める中で、田中元会長が言うことをメーカー側はスムーズに引き受けなくて、元会長は「俺はやめた」と強く出たと聞いています。最終的にどちらが譲歩したかはわかりませんが、メーカーの態度は強固だったそうです。田中 メーカーは最初、上から目線できたようですが、父はそう甲斐日産モーター(株)と山梨日産自動車(株)の統合記念式典の様子(演壇は田中潤次元会長)現在地に移転当初の本社屋KAI NISSAN 60th Anniversary | 15