ブックタイトル甲斐日産60th

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概要

甲斐日産60th

きないことです。そして田中潤次さんのリーダーシップの下、皆が一丸となってやっていこうという気概は社員達にありました。待ちわびたマイカーブーム到来田中 昭和45年当時、私は勤務していた銀行で、これからの日本の自動車産業はどうなるか、というレポートを読んだんです。それにはまだ海のものとも山のものとも分からないという慎重な見方が書かれていて、ビッグ3に入ってこられたら、日本の自動車メーカー各社は一網打尽だろうというのが通説だった。そんな先行きが分からない中で、当社はよく頑張ったなと思います。井上 そうです、年越しも危ぶまれるくらい苦しい時もありました。田中 給料遅配ということもあり、社員のみなさんに迷惑をかけたこともあったそうですね。それはいつごろでしたか。住吉 住吉神社の一角に移って2年目ぐらいでしたから、昭和37~38年ごろです。田中 給料が遅れるというのは本当につらかったと思います。一人ひとりに暮らしがありますからね。社員は歯を食いしばってよく頑張ったと思います。住吉 サービスの現場が1日ストライキをおこしたことはありました。田中 不満や先行きの不安からでしょうね。当時は今のようなモータリゼーションの経路が見えていないわけですから、不安は大きかったでしょう。よく通過してきたと思います。その苦しい状況が一息ついたのは、セドリックが発売されてからでしょうか。昭和35年にブルーバードが発売され、マイカーブームに火が付き、その後、セドリックが大ヒットしました。井上 セドリックがモデルチェンジした途端に他社の車から乗り変える人が後を絶たないという時がありました。住吉 セドリックの230という4ドアのハードトップが爆発的に売れたのが、一番の分岐点でしたね。そのあとのローレルもすごい人気で、ショールームの前にお客様の列ができました。田中 ローレル発表会にはショールームが人でごった返して、迷子が出るほどだったと聞いています。さらに下取りも列をなして待っているので、乗り換えもスムースだったそうですね。住吉 営業努力なくても売れました。展示会は事務所まで払ってショールームにして開催し、2日間で90台売れたこともありました。セドリック、ローレル、さらにシーマもヒットしました。田中 シーマはバブルのちょっと手前の頃ですね。セドリックのプレミア版として、最初はセドリック・シーマという名前でした。住吉 誰もが欲しがる人気車種になりました。そのあとBe-1、フィガロといった限定車も人気を集めました。田中 ラシーンも人気がありましたね。フィガロは今でも中古市場でひっぱりだこです。限定というのがヒットにつながりました。住吉 ヒット商品があると営業も随分ラクでした。井上 メーカーが良い車を作ってくれれば売れるんですね。一方で忘れもしない昭和53年に、NAPS(日産公害防止システム)仕様のエンジンが搭載されるようになるとパワーロスで、「セドリックじゃ御坂の坂を登れなくて恥をかいた」と大変な不評で、ずっと日産びいきだったお客さまが離れてしまう事態を招きました。ですから当社はセドリックで良い時代も悪い時代も経験し、セドリックで左右されているということが多分にありました。住吉 車は一度他社に乗り換えるとなかなか戻ってきてはくれませんから、その時代は苦労しました。将来を見据えての本社移転田中 昭和45年に住吉から本社を現在の上今井町に移転しました。当初の本社候補地は購入済みの国道20号線沿いの現東京インテリアのある土地でしたが、甲府バイパスの工事が遅れて急きょこの場所になったそうですね。その頃、この辺りは桑畑しかなかったそうですが、こんな場所に?と思いませんでしたか。住吉 辺り一帯が桑畑で、道路ももちろん舗装などされてなくて、万才橋の向こうに抜ける道もありませんでした。条件としては確かによくはなかったです。田中 そこもよく乗り越えてこられたと思います。その後は甲府南ICができ、新々平和通りが整備され、さらに環状道路や今からリニアの新駅もできますからね。住吉 当時はこんなになるとは誰も思っていませんでした。あ社外取締役井上雅雄さん、甲斐日産OB住吉譲さんが当時を懐かしく語る田中好輔会長が聞くス ペシャルインタビュー爆発的に売れたセドリック230型14 | KAI NISSAN 60th Anniversary