ブックタイトル甲斐日産60th

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概要

甲斐日産60th

厳しい時代を乗り越えて田中 私が経営に参画するのはバブルも終わり山梨日産と統合した後で、会社設立からそれまでの間には、債務超過に陥ったり売れ筋だったセドリックの人気が急激に落ちたりなど、ずいぶん大変な時期もあったのではないかと想像します。井上さんには日頃からレギュラーユーザーとして広告塔になっていただき、経営ご意見番になっていただいているので、大変だった時代も苦楽を共にされ、アドバイスや情報、ご指導をずいぶんいただいたのではないかと思います。井上 設立当時は社屋が緑町にあって、私の会社から歩いて10分だったのでしょっちゅう訪ねては、プレハブの事務所で田中潤次さんや飯野さんと会社の経営について話をしていました。当時の車といえばガソリンメーターも無くて、給油口から細長い棒を差し入れて先っぽがどれくらいまで濡れるかを見てガソリンの残量を確認していたような時代でした。巷ではダットサントラックが人気でしたが1年くらい乗るとドアが下がってしまうなど不具合の発生もあったので、当社ではキャブライトをダットサントラックより安くて良いものとして販売していました。しかし販売車種がキャブライトだけでは経営は厳しかった。田中 まだ乗用車が一般に普及し売れ行きに火が着く前の時代ですからね、そうたくさん売れるわけではありません。甲斐日産モーターは15人のメンバーで設立されたと聞いていますが、住吉さんはその設立メンバーのお一人ですね。住吉 昭和34年2月に山梨日産の宿直部屋でスタートした時のメンバーの一人です。その後、すぐに緑町にプレハブの営業所をつくって移り、そこは2年足らずしかいなくて、36年には住吉神社の境内の一角に本社屋をつくって移りました。田中 退社されて14年ということですが、若い頃から営業畑一筋でやってこられて、役員もされ、最後は子会社のマネージメントをされて卒業されました。酸いも甘いもかみ分けてこられた、まさに甲斐日産の歴史を歩まれてきた方です。住吉 創業当時のキャブライト1車種しか扱っていなかったころは、月間平均販売台数は7台でした。飯野さんが「月に8台売ってくれると経営がラクなのに」とよく言っていました。月に5台売ったらカメラをプレゼントしてくれるということになり、その月の販売台数が7、8台の時に私は5台を売り、カメラをいただきました。田中 住吉さんはトップセールスで、何度も社内表彰を受けたと聞いています。当時、営業は何人いましたか。住吉 営業は6人いましたが、創業当時は基盤も知名度もないので苦労することも多かったです。「甲斐日産モーター」という名刺を出すと、お客さんが「何のモーターを売っているで?日立け?三菱け?」なんて言うわけです。キャブライトもほとんど知られていなくて、飛び込んだお宅で一生懸命説明をしたら、最後に「うちじゃ、免許証を誰も持っていないからいらないよ」と言われたこともありました。井上 そうでしたね、本当に大変な時代でした。でも当社は世の中を少し先取りしたことを考えていたわけで、この苦しい時を乗り越えれば自分たちの取り組んできたことが日の目を見て、ゆくゆくは売れる時代が来ると社員皆が信じていないとで昭和36年に住吉の本社屋がオープン当時、第1回の最多販売賞を受賞する住吉譲さん発売当時のダットサンキャブライトの販売マニュアル当時のダットサンキャブライトKAI NISSAN 60th Anniversary | 13